カリフォルニアの閑静な住宅街。
青い空、パームツリー、そして整然と並ぶ家々。
HOA(住宅所有者組合)の細かすぎるルールに怯えるのが、この土地の持ち家生活の“あるある”だ。
——そう思っていた。
あの日までは。
私が住むのは、ゲートも警備員もいない Semi-Gated Community。
「Restricted Area」「Private Property」の看板が掲げられたこの区画で見かける車といえば、ゴミ収集車や郵便配達、Amazonの配送トラック、そして定期的にやってくる庭師の作業車くらい。
人も車もめったに通らない。人気がなさすぎて不気味なくらい静かな街並み。
だからこそ、近隣住民と会ったこともなければ、誰が住んでるのかも知らない、ただ止めてある車種でご近所さんだと認識する程度の「挨拶ゼロ」なドライな距離感も当たり前だと思っていたし、むしろその無干渉な静けさを心から気に入っていたのだ。
あの日、あの朝までは。
あの、あなた誰ですか?
カリフォルニアのカラッとした太陽の下、フロントヤードに見慣れた徘徊猫がやってきた。
あまりの愛くるしさに完全に油断し、しゃがみ込んで撫で回していた、その時である。
「その猫、お宅の猫なの?」
誰もいないはずの空間に突然響いた、低く不躾な声。
飛び上がるほど動揺しながら振り返ると、いつの間に忍び寄っていたのか、見知らぬおばあさんが仁王立ちしていた。
いつからそこにいたの……?
私が言葉に詰まっているコンマ0.5秒の間に、彼女は我が家の敷地境界線をあっさりと越え、ズカズカとフロントヤードへ侵入してくる。
「その猫、お宅の猫なの??(圧)」
脳内でけたたましく緊急アラームが鳴り響く。
本当はね、炎天下で熱中症にならないよう日陰に水飲み場を作ってあげているし、たまに長居する時にはカリカリだって進呈している。
でも、相手の目的も正体も分からないこの状況で、バカ正直に手の内を明かすのは危険すぎる。
「いいえ、うちの猫ではありません。野良猫だと思います。時々やってくることがあります。」
努めて平静を装い、公式見解を回答した私。
「野良猫に餌をやるな!」とお説教が始まるのかと身構えた次の瞬間、おばあさんの口から出たのは全く予想外の言葉だった。
「その猫はね、あなたの隣の家が売りに出されたときに、捨てていかれた猫なの。」
……えっ? 猫の素行調査じゃなかったの……?
忍び寄る「40年の主」
そこから始まったのは、怒涛の自分語りとご近所裏情報の暴露大会だった。
「私ね、このコミュニティが建設された当時からここに住んでいるのよ。もう40年もね!」
40年……! このSemi-Gated Communityの歴史そのものじゃないの。
「私がこの区画のオリジナルの主よ」と言わんばかりの誇らしげな表情で、彼女は手元のスマホを取り出した。
「ほら、これを見てみなさいよ」
そう言って勝ち誇ったように突きつけてきた画面を見た瞬間、私の背筋に冷や汗が走った。
そこに並んでいたのは、よそのお宅のポーチや玄関まわり、そしてあちこちの家の写真アルバム。人物は一人も映っていない。
そして、私が最も慄いた一枚がこちら。
『開け放たれた他人のポストの中身(郵便物バッチリ)』の写真。
……ちょっと待って。
人物が映っていないということは、日常的に住民の隙を突いて敷地内に侵入し、勝手にポストを開けて撮影しているってこと……!?
隣がなぜ売りに出されたのか、いついくらで売れたのか、前と今のオーナー情報まで、40年のキャリアを誇る彼女の個人情報データベースには完璧に登録済みだった。
HOAの規約違反チェックなんてレベルじゃない。
これはもう、この街を裏で牛耳る「リアル監視カメラ(人間版)」の不法侵入&調査報告書である。
確信した。このおばあさんは、絶対に、絶対に敵に回してはいけない人物なのである。
(落ち着け……顔に出すな……! 敵に回したら明日は我が身……! 私はいま、ただの無害で従順なご近所さん(できれば景色の一部)……!)
脳内で警報が鳴り響くなか、私は女優も顔負けの「適度に関心がありつつも、当たり障りのない相槌」を打ち、完璧なポーカーフェイスで耐え忍んでいた。
社交辞令という名の自爆
ひとしきり調査報告を終えたおばあさんは、満足そうにフッと微笑むと、信じられない言葉を口にした。
「あなたともっとお話ししたいわ。このあとコーヒーでもどう? 私の家はそこよ!」
彼女が親指でピッと指さしたのは、目と鼻の先——我が家の斜め前方の家。
(うわっ、こんなに近かったのかよ……!)
逃げ場ゼロの至近距離に慄く私。しかも、私にはこれから本当に外出するアポイント(予定)が入っている。
時間が押している焦りもあり、この恐怖のティータイムを丁寧かつ完璧にお断りした。
「あ、実はこのあとすぐ人と会う予定があるので、またの機会に……!」
いつ・どこで・誰と会うのかという余計な情報は一切挟まない、完璧なリスク管理。
「誰に会うの?」「何時に終わるの?」という追撃の質問すら封じる回答を繰り出した……はずだった。
しかし、40年のキャリアを持つヌシに「相手の都合」や「遠慮」という概念は通用しなかったのである。
「あ、そうなの? じゃあちょっとウチの旦那にも紹介するからついてきて!」
……えっ!?
「このあと人と会う予定がある」と言っている人間を、そのまま腕を掴まんばかりの勢いで自分の家へと引っ張っていくおばあさん。
コーヒーは断れても、自宅への強制連行は免れなかった。
拒否権ゼロ。そのまま連行された先には、ガレージで何やら作業をしていた、いかにも気の良さそうなおじいさん(旦那様)がいた。
「やあ」と優しく微笑む旦那様と軽く自己紹介を交わし、胸をなでおろす私。
あぁ、奥さんの「人間防犯カメラ」ぶりに比べて、なんて平和で穏やかな旦那様なんだろう……。
ここで一刻も早く予定に向かわねば!と足早に去ろうとしたその時、私の口からこの10年で体に染みついてしまった「アメリカ流の社交辞令」が、完全な無意識でこぼれ落ちてしまったのだ。
「Let me know if you ever need anything!(何かあったら遠慮なく言ってね〜!)」
(あぁぁぁぁぁ!! 言った瞬間、自分の口を縫い付けたくなった。アメリカの日常会話の挨拶として反射的に言ってしまった! この状況で最も適切ではない言葉を!私のバカバカバカ!!)
そして、我が家へ戻ろうと踵を返した、そのまさにコンマ1秒後。
「そうそう! このエリアにね、私より年上の日本人が住んでるのよ。あなたを紹介してあげてもいい?」
……なんだと……!?
「いい?」なんて聞き方をしているけれど、彼女の眼光は完全に「拒否権など存在しない」と言っている。
「何かあったら言ってね」という軽口のスキを見逃さず、彼女はすかさず「今必要なこと(=マッチング)」をぶち込んできたのだ。
繰り返し言うが、彼女は絶対に敵に回してはいけない人物である。
「あ、はぁ……はい……」
「じゃあ、あなたの名前と電話番号教えて!」
ガーン……!!!!!
詰んだ。完全なる詰み。チェックメイト。
予定前の数分間で自爆を重ね、個人情報データベースに「直通ダイヤル」までフル登録される羽目になった私。
命からがら帰宅したあと、旦那から一言。
「さっき、2階から見てたよ。連れていかれてて笑った。」
助けに来いよ!!!!(怒)
カリフォルニアの爽やかな空の下、我が家の斜め前には、今日も最強の防犯カメラ(兼・人間関係マッチングサービス)が24時間体制で稼働している。
ねぇ、本当に怖いのはHOAの警告状なんかじゃない。
「絶対に敵に回してはいけない40年の重みを背負い、アポ直前の住民を捕まえ、社交辞令のスキを見逃さずに電話番号までかっさらっていく斜め前のおばあちゃん」なんだと思うの。

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