ベイエリアの空は、今日も驚くほど青い。
街にはそこそこ人がいて、カフェのテラスでは誰かが静かにコーヒーを飲んでいる。都会の顔をしている。
けれど、この街は“都市のふりをしたド田舎”だ。
住宅街と乾いた丘が中途半端に混ざり合い、車を少し走らせれば景色はすぐに変わる。
乾いた山肌、草原、ぽつんと立つ一本の木。
人の気配がふっと途切れ、風の音だけが耳に残る。
広さがそのまま静けさになり、静けさがそのまま不安に変わる土地。
慣れるまでは、自分がどこにいるのか本当にわからなくなることがあった。
頼れるのは、スマホのGPSと車載ナビだけ。
この土地では、GPS―位置情報は“便利な機能”ではなく、自分の所在を示す唯一の手段なのだ。
ドライブの気持ちよさと、ふとよぎるリアルの恐怖
ツマ子は運転が好きだ。
―しかし、この土地の静けさが“危険”に変わる瞬間を知っている―
山道とまでは言わないものの、旧果樹園だった小高い丘を抜ける道、かろうじてセンターラインが敷かれた細い道。
そんな道を、フリーウェイの渋滞を避けて、あえて選んで走ることがある。
木漏れ日の中を走るのは、ただ気持ちがいいからだ。
けれど、それも最近は控えている。
万が一、この道で車が動かなくなったら。
もしも、突然の病に倒れたら。
誰にも気づかれないかもしれない――その“リアルな死の不安”が、ふっと背中を撫でていくからだ。
この土地では、静けさがそのまま危険に変わることがある。
広いということは、助けが遠いということでもある。
日常が突然、途切れるということ
私は知っている。平穏な日常が、ある日突然断絶する瞬間があることを。
アメリカ出張中の旦那、飛び立つことのない飛行機、ニュースを見続けた9.11。
そして、自分の足元が大きく揺らぎ続け、原発の事故に「日本の終了」すら感じて息が止まった東日本大震災。
自分の力ではどうにもコントロールできない絶望や断絶は、いつも何の前触れもなくやってくる。
そしてこの広大なカリフォルニアの土地でも、一歩車を走らせれば「日常のすぐ隣にある断絶」と背中合わせだ。
「束縛」ではなく、事故の瞬間に感じた自分の弱さ
「夫婦でGPSなんて、干渉しすぎじゃない?」
そんな声が聞こえてくることもある。
でも、私はもうその議論を一歩引いた場所から見ている。
ここは、犯罪だけでなく、突然の事故、携帯の通じない場所での野生動物との遭遇、そして病による急な体調変化――そうした“予期せぬ断絶”が日常のすぐ隣にある土地だ。
もし発見が遅れたら、取り返しがつかないことになる。
そして私は、実際に事故に遭った。
その瞬間、自分がどれほど冷静でいられなくなるかを、身をもって知った。
車が衝撃を受け、世界が一瞬でノイズに変わった時、私はスマホを握りしめながら、旦那の電話番号を検索することさえできなかった。
頭が真っ白になり、指が動かず、ただテキストメッセージの画面を開いて、
「事故にあった」
と短く打つのが精一杯だった。
あの瞬間、私は“自分は思っているほど強くない”という事実を静かに理解した。
そして同時に、GPSで位置が共有されているということが、どれほど心の底で支えになっていたのかを。
だから私たちは、日常のルールを決めた。
必要のない時は見ない。
ただ、別々に外出する時は「到着したよ」の一言を待つ。
その連絡が途絶えた時、すぐに異変に気づけるように。
それは束縛ではなく、互いの自由を守るための最低限の仕組みだ。
10年という月日が教えてくれた、静かな安心
気づけば、この地に暮らして十年が経った。
都会育ちの私が、ようやくこの土地の感覚という作法に慣れてきた頃だ。
車を少し走らせれば、携帯の電波すら怪しい草原や、人里離れた裏寂しい景色が広がるこのカリフォルニアで――。
私たちがスマホのGPSを共有しているのは、お互いを縛るためではなく、
お互いの自由と安全を静かに守るためだ。
地図に示される位置情報は、信頼があるからこそ温かい安心に変わる。
それは、10年の歳月が育んだ、テクノロジーが生んだ言葉のいらない信頼。
夕暮れの風の中、スマホに灯る小さな青い点を見る。
それは位置情報ではなく、今日も大切な人が無事でいるという静かな安心だ。
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